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- いじめ・自殺防止のために
オオナリです。 NPO再チャレンジ東京ならびに東京都が主催する『いじめ・自殺防止コンクール(作文部門)』において、「優秀賞」を頂きました。 作品『肉巻き、アスパラガス』は無料で読めるので、もしお時間があればぜひご一読ください。 4,000字のショートストーリーです。 *画像から作品公開ページにアクセスできます 子どものいじめによる自殺を防止すべく活動する「NPO法人再チャレンジ東京」ですが、最も私たちに馴染みのある活動は、「いじめ防止の啓蒙ポスター」でしょう。 誰しも一度は目にしたであろう、小学校や中学校の保健室や職員室の前に貼ってある、あれです。 実はあのポスター、このNPO法人がいじめ・自殺を防止に寄与する作品を全国から募集・選考し、補助金を活用して全国の学校に届けてくれています。 *久しぶりに賞状を手渡しでいただきました! 絵心には恵まれなかった私ですが、昔から読書と作文は好きで、義務教育過程で稀に用意される作文コンクールを密かに楽しみにしていました。 特に中学生二年生のころに書いた「税金作文」が入選したときは、これまで地区や地域の枠を出なかった作品が初めて公に賞賛され、文章を通じて人々に僅かばかりの影響を与えることができたと嬉しく思ったことを覚えています。 ところが、大人になって作文を書く機会はほとんどなくなってしまいました。 「文章を書かないということは、考えないということだ」という、大学時代の指導教官の言葉を思い出します。思えば、私たちがふだん交わす言葉も、SNSが発達とともにどんどん奥行きのないものになっているような気もします。 そんなとき、ある出来事をきっかけに昔のことを思い出しました。 学生の頃に確かにあった「いじめ」の現場についてです。 *主催者として祝辞を述べる青木英二 東京都目黒区長 いじめやそれを原因とする自殺についての報道はいまだに消えず、それどころか暴言・暴力に限らず、SNSにおけるバーチャル空間でのいじめや、挙げ句の果てには性的被害まで報告されるなど、(影響の範囲が大きいという点で)この問題はむしろ深刻化しているようにも感じます。 こうしたことについて考えていると、いじめにおける最も卑劣な行為(幸福の総量が減少する行為)は何かというテーマが浮かび、そのことについてどうにか表現しておかなければならない気になりました。そんなときにたまたま見つけたのが、このコンクールです。 * 受賞者には、高校生や教諭、出版社の社長など、意外にもいろんな年齢・職業の方がいらっしゃいました。 なかでも元高校教師である清水健一先生が43年の教員生活で培った、「いじめの発生過程と指導」についてのスピーチや、「◯◯◯◯高校校門圧死事件から見る管理教育」についての講演がノートが埋まるほどに興味深く、大変なインサイトをいただきました。 自分の書いたものが公に評価されるのは嬉しいですし、教育事業に従事する者としても大変有益な経験をさせていただきました。 これからも細々書いてみようと思います。 ご覧いただきありがとうございました! *帰りに中目黒でおでんをいただきました(鶏塩だしの玉子が絶品!) 第11回 いじめ・自殺防止コンクール 作文部門(優秀賞) http://www.jigyo-saisei.com/P03-jigyosaisei-info%20dummy.html 主催:NPO法人再チャレンジ東京 共催:東京都 後援:文部科学省 審査員の先生方(第11回・2023年) ◇宮川 路子 (法政大学教授・医学博士) ◇真下麻里子 (弁護士) ◇植木 孝明 (俳優) ◇下野 六太 (参議院議員) ◇谷合 規子 (ノンフィクション作家) ◇佐藤 健吉 (洸風座代表理事・工学博士)
- はじめてのYouTube
立派な動画ができました! 金融教育専門会社のフラタニティは、 おかげさまで創立から1周年を迎えることができました。 同じ志を持つ仲間が3人。加えてたくさんの講師の先生が仲間になってくれています。 そんな仲間のひとりの発案により、 私たちが何者か知ってもらうためのYouTube動画が出来上がりました! ーーーーーーー*ーーーーーーー 『動画、2週間で完成させますから。』 一行のメールが来たとき、 正直これは間に合わないだろうと思いました。 目標期日の前日。ここに間に合わないと意味がないから、とDirector(当社の役職)からは、”とにかくやる”という固い意志を感じました。 でも、それは現実的に無理な注文だと思いました。 Youtubeの経験があれば話は別ですが、動画すら作ったことがありません。 これは特別な代理店さんから学校の先生に紹介してもらうための動画ですから、それなりのクオリティでなければ格好もつきません。 それにはきちんとしたスタジオで撮影して、テロップもつけて、難しそうな調整も全部やる、要するに“プロの仕事”が必要です。 運良く誰かに依頼できたとしても、時間はあまりにも限られています。 決まっているのは「最善の動画を公開する」ということだけ。 動画のプロは周りにいないし、そうなると予算も心配。 インタビューはしたいけど、先生にも協力してもらえるかわからない。 おまけに、全員のスケジュールは絶妙な埋まりかたをしている。 製作期間も入れたら、どれだけ上手くいっても3週間くらいは……。 なんて思い込んでいました。 『お願いできました。◯◯日◯時、北赤羽に行ってください。』 連絡が来たのは2日後。 どこの物好きが、こんな無茶なスケジュールに付き合ってくれたのかと思いました。 とにかく強烈なリーダーシップに背中を押されて指定された場所に行くと、それはそれは立派なスタジオで、スタッフの方は5人も待機してくれていました。 プロの仕事は凄いです。 NHK系の制作会社出身であるというプロフェッショナルな彼らの気持ちのいいリードのおかげで、OKはすぐに出ました。 皆、撮影も音声も照明も編集もできるということで、どうしてそんなことができるのか?と問うと、全員の答えが同じでした。 やらせてもらえたから。 照明部で入ったのに、いきなりカメラを持たされて青森でマグロ漁船に乗せられたり、有名番組のADをやらされたり、とにかくひどかったよなwと笑っている5人とお話しして 結局、恐ろしい最初の一歩を踏み出せるかどうか。これに尽きると思いました。 やったことがないのは当たり前。でもできるようになりたい。じゃあどうするか。 やってみるしかない。 考えてみれば当たり前のことですが、金言の本当の意味に触れ、はっとした瞬間でした。 『今の打ち合わせを加味して、明後日、7割のものを出します』 結局、そのチームの制作はほとんど完璧で、素人が口を出す余地などほとんどありませんでした。 最終版は無事、Directorの指示した1日前に届き、予定通りにYoutubeにアップロードすることができたのです。 * Where there is a will, there is a way. (意志あるところに、道は通ず) ちょっと大袈裟ですが、リンカーンのこの名言を思い出しました。 完全に、仲間が用意してくれた舞台。 涼しい顔をして「プロの仕事」こなしてくれた皆さんに この場を借りて心よりお礼申し上げます。 いつも本当に、ありがとうございます! ーーーーーーー*ーーーーーーー ▽▼こんな動画が出来上がりました!!▼▽ https://youtu.be/UaUkSeAKMeE 私たちは、中立的立場を堅持する 日本初の金融教育の専門会社です。
- 文明を上げる
以下の文章は、二〇二四年元旦に社内向けに発信された「年頭所感」です。 ーーーーーーー*ーーーーーーー 「年頭所感」は、社員の皆様に向けた年頭挨拶に代え、 代表が事業運営における基本姿勢ならびに個人の所感について記した文書です。 三つのことばから得たインサイトから、我々の事業と生命の意義について考察します。 ーーーーーーー*ーーーーーーー “自己とは何そや 是れ人世の根本的問題なり” 日本の哲学者・清沢満之が記した『臘扇記 第一号』に、こんな言葉がありました。齢三十五、すでに当時不治の病といわれた結核を患った清沢は、自分の思い通りに生きることがままならない状況のなか『臘扇記(ろうせんき)』という日記に、こう記しました。 “臘扇”とは、「冬の扇」。つまり、役に立たないもの、無用なものという意味です。 世間からは疎まれ、役に立たない厄介者という扱いを受けながら、清沢は、あらためて自らの生命の意義をみつめ、問い続けたのでしょう。 私たちの社会は、人がその生涯において何を成し遂げたかによってその価値が決まる、成果主義的社会です。したがって、「あなたは何ができますか?」と常に問われ、自分にできることは何か?自分は何を成し遂げたのか?と、自分に問いかけずにはいられません。 しかし、自分の存在意味への問いは、ややもすれば「自分は生きていていいのか?」という、存在資格そのものへの問いに続きます。それほど危険なことなので、たいていの人間は、こうした自分との対話を嫌います。自分の内に発した火花が炎となることを察すると、すぐに「考えすぎだ」とか「無意味だ」とか「関係ない」とか、そういった当事者意識を放擲する態度を好むのです。しかし、それは本当に考えすぎで、あるいは無意味で、またあるいは関係ないことなのでしょうか。本当に? “人間と動物を分かつ唯一のものは、言葉である。” こちらは、幻冬社の見城徹社長の珠玉の名言です。彼の言うとおり、人は言葉で思考し、言葉で関係を切り結び、社会と文明をここまで発展させてきました。逆に言えば、言葉を獲得せず、思考しなければ、それは人間の仕事を果たしていないということであると見城社長は記しています。私は、この意見に完全に同意します。たしかに自分と向き合う(対峙)ことは大変に辛いことでもあります。私も経験がありますから、それは間違いありません。しかし、どれだけ苦しかろうが、その問いから逃げるという行為は、卑怯で、劣弱で、極めて自己中心的な態度だと私は思えてならないのです。 己という人間が、一体どのように役に立つのか。そもそも自分というものは何なのか。 かつてこの惑星の土を踏んだ一千億以上の人間が未だ答えを出せずにいるこの問いには、それでも現代生きる我々が次の文明へシフトするために、向き合う意味があると思います。火も電気も都市もスマートフォンも、もとを辿れば言葉による「問い」の産物です。ならば、AIも宇宙開発も他の惑星への移住計画も、人間の問いから生まれるに違いありません。 つまり「問い」は、文明を向上させる根源的な「蝶のはばたき」であるのです。 では、私は、何ができるのでしょうか。その答えは、私の場合、金融教育でした。 では、わたしたちの仕事(金融教育)とは、一体何なのでしょうか。 究極、それは「問うこと」だと思います。 第一に、金融というひとつのフィルターを通して考える材料(情報)を授けること。そして第二に、金融そのものでなく、個人の人生とのつながりを意識させ、人生設計という観点から「あなたの幸福のために、あなたはどうする?」と問うこと。このように“良質な問い”を授けてまわるのが、私たちの仕事です。 良質な問いを授けることは、優れた人間にしかできません。何を言うかより、誰が言うか。小物や弱者の言葉に、本質的に人は耳を傾けないのです。何が言いたいか、もうお分かりかと思います。ゆえに私たちは、人一倍に言葉を獲得し、自らに対して良質な問いを与え、卓越した存在(エクセレンス)であり続ける必要があるのです。 卓越した存在が集う会社の売上が振るわない。こんなことが、あっていいはずがないのです。だからこそ、私たちは人間的にだけでなく、経済主体として成功し、世の光となる以外に道はないのです。成功とは、普通でなく好ましい状態のことを言うそうです。我々は、金が欲しいから、名誉が欲しいから、この仕事をしているのではありません。そんなものは豚にでも食わせておけばいい。我々は、ただ一心に、文明の発展に寄与するために、最善を尽くすのです。そのあらわれ(結果)として、金融教育があり、個人の経済的平和があり、幸福度の上昇があり、国家の発展があるのです。結果として、利益や尊敬が当然に得られ、明日も事業を行うだけの経費を支払うことができるのです。こんな会社が、潰れてたまるかと私は声を大にして言いたい。仮にわたしたちの会社が淘汰される世があったとして、そこに暮らすのはどんな人間たちでしょうか?私は、死んでもそんな世界に住みたくはありません。 “私たちは、「構造」によって支配されている。” 最後は、構造主義を唱えた哲学者レヴィ=ストロースの言葉です。“構造”とは、端的に言えば、人間を創った存在が人間に埋め込んだプログラムのことです。難しいので例をあげると、例えば「近親相姦」を禁止しているのは、子の遺伝子が弱体化するからではなく、部族間の女性の交換が停止することで片方の部族が滅び、人類総体としての発展の可能性が失われるからである、というのが構造主義における主張です。ここでは社会の交換システムの保護という文脈で近親相姦と“構造”が語られていますが、要するに人間は、「総体として発展するように創られている」のです。私これを読んだとき、次のように考えました。 結局のところ、人間は文明を上げるという目的のために存在している。 地球上では、善と悪、破壊と再生、戦争と平和、両極端の営みが、それぞれの領域に正規分布するといわれる人間によって行われていますが、結局はそれら全てが、人類や地球という枠組みを超えた「文明を上げる」という“構造”、すなわちグランド・ミッションに従っているに過ぎないのではないか、と。 ともすれば、「良くも悪くも構造に支配されている存在なら、まあ、そこまでガチ(原理原則中心)になんなくてもいいっしょ(とにかく自分が良いのが大事だし、好き勝手自由に振る舞えばいい)」という反論も自然です。しかし、私は強く問いたい。 あなたは、誰のおかげで、いまを生きているのかと。 先人が築いた文明と、彼らの生命、人生、技術や経済的発展の上で、幸運にも生きることを許された存在なのではないのかと。何百何千億の血と汗と涙と努力の上に、ようやく今存在しうるあなたが、現代において賛美される「多様性」や「個性」という薄っぺらい価値観を根拠に、「文明を上げる」という壮大で不変のグランド・ミッション(“構造”)に無関係であるという態度をとることが「正しい生き方なのだ」と、血を流した先人たちを前に、胸を張って言えるのかと。本当に言えるのか、と。 私は、それを決して正しいとは思いません。それは原理原則に反する態度です。 原理原則に反する思想や行動は、たとえ社会が歓迎しようとも、私は断固として否定したい。 自分の経験や、深い思考といった痛みを伴うことなく、ただ社会が用意した体の良い言葉を都合よく解釈し、その上に胡座をかく人間など、生きている価値がないとすら思います。 そんなことでは、いつまで経っても社会が良くならない。文明が上がらない。 しかし、彼らを糾弾するだけでは、これもまた文明は上がらないということも事実です。 そこで、我々フラタニティ(友愛)の存在があるわけです。 我々には、彼らを「導く」という社会的な役割がある。我々の仕事は、「良質な問い」を授けてまわることだと先に述べました。個人が内在する幸福について思いをめぐらせ、それと切っても切り離せない「お金」による余計なストレスを軽減させうる機会を創ること。その営みの全てを以て、社会の幸福の総量を増やし、文明を上げることが我々の社会的使命です。 彼らとて、本質的に利己的に振る舞っているわけではない、というのが私の持論です。 なぜなら私たちも彼らも同じ人類であり、人類は須く“構造”に支配されている。つまり私たちも彼らも、同じグランド・ミッションを担っていると考えているからです。 では、その差は一体何から生まれるのか。 それは、「問い」の頻度と深度です。だからこそ、まだ弱冠三十の我々は常に己を向上させ、その力を以て個人に良質な問いを授け、長い長い時間をかけて、自分たちが生まれてくる前よりも、少しでも社会と文明を発展させることに寄与するべきではないでしょうか。 とどのつまり、原理原則主義は正しい、ということです。 良心、これもまた“構造”のひとつです。人に親切にする。誰かを幸福にするために一生懸命働く。そうした営みの集合体が、時間をかけて少しずつ文明を上げていく。そうして近いうち、人類の生活圏は宇宙にまで広がり、新しい叡智を作り上げていくはずです。 私が何と言おうと、あなたが何と言おうと、原理原則や構造には抗うことはできません。 ならば、最初から「文明を上げる」ことをゴールに定め、残りの人生を生きてみませんか。 原理原則という不変の基準に照らして、瞬間の思考や行動を選択してみませんか。 正面から己や社会と向き合い、試行錯誤し、葛藤し、傷つき、喜ぶ。 そんな生き方を選んだのは他でもない自分自身だと心得て精一杯に生き、その壮大なグランド・ミッションの道の途中で年老いて、ともに死んでいきませんか。 息絶える間際、自分の人生は正しかったと、強い幸福感を感じながら。 なぜなら、わたしは、原理原則に従って生きたのだから。と。 二〇二四年 一月 一日 未明 記 合同会社フラタニティ 代表社員 兼 最高経営責任者 大成 裕道 ーーーーーーー*ーーーーーーー *参考文献* 『臘扇記 第一号』清沢満之(『清沢満之全集』第八巻 岩波書店, 『読書という荒野』見城徹 幻冬社, 『親族の基本構造(福井和美 訳)』クロード・レヴィ=ストロース 青弓社, 『野生の思考』クロード・レヴィ=ストロース みすず書房, 『百年の愚行 ONE HUNDRED YEARS OF IDIOCY』 池澤 夏樹/アッバス・キアロスタミ/フリーマン・ダイソン/鄭 義/クロード・レヴィ=ストロース/小崎 哲哉, 『Newton』第37巻 第10号(文明のレベルを分類する「カルダシェフ・スケール」)ニュートンプレス社(2017年7月 35頁), 『完訳 7つの習慣 人格主義の回復』スティーブン・R・コヴィー キングベアー出版, 大谷大学HP『教員エッセイ-今日のことば(2017年10月)』
- 平和を語り継ぐ
今日は、78回目の終戦記念日です。 もはやこの日に気づかない人もいるほど戦争が他人事になってきた今、この「無関心さ」は平和か退廃か、そのどちらだろうと毎年考えます。 ーーーーー*ーーーーー 先日、日本テレビの特集でとても印象的な特集がありました。 広島の高校生が「戦争を絵で語り継がないといけない」と考え、戦争の凄惨さについて年配の戦争経験者から学び、”その日”を絵で語り継ごうとする話です。 広島に生きる者として、戦争の惨さを語り継がないといけない。でも、知れば知るほど信じられない。想像できない。そんな葛藤を抱えながら、彼はとても辛そうな面持ちで美術部の仲間たちとキャンバスに対峙します。表現して伝えなきゃいけない。そう心から思っているにも関わらず、「わからないから描けない」。そんな状態に憤り、半狂乱になってもがく姿に、私は強く胸を打たれました。 「自分には関係がないから」と無関心になる人が多くなった今、使命感と責任感を抱え、不安定になりながらもキャンバスに向かう16歳の絵描き。 私は彼のことを、素晴らしい人だと感じました。 ーーーーー*ーーーーー 過去に『金融×平和プログラム』の取材で沖縄を訪れ、現地の女性にインタビューをしたときのこと。取材に訪れた私たちは、彼女の話から、沖縄の”ふつうの人”の平和意識の高さにひどく驚きました。 「私たちは、小学校1年生のころから、地獄のような映像を嫌というほど見ているんです」 本土決戦の当事者である沖縄の平和教育は特別である。インタビューの冒頭で、彼女はこう言いました。火炎放射器で焼かれる人、断崖から飛び降りる姿、身体の一部を失い痛みに狂乱する兵士。いったい、誰がそんな映像を観たいと思うのか。小学生の身にはあまりにも凄惨な映像が脳裏に焼きつき、その恐怖に夜も泣いてしまったと彼女は話しました。 「戦争の話はもう嫌だ」小学生だった彼女はある日、祖母にそう漏らしました。 「それでも、忘れたらいけない」と、祖母は彼女に自らの戦争体験を聞かせました。さっきまで笑顔だった祖母の顔が強張り、苦しそうに涙を流しながら、時間をかけて自らの経験を幼い彼女に語りました。 語られた戦争の記憶は、その後の彼女に大きな影響を与えました。島民の4人に1人が犠牲となった沖縄の決戦。自分の先祖が何度も何度も”運命の分かれ道”を潜り抜け、今の自分の命の襷を繋げてくれた。その事実を、本能が理解した瞬間だったと言います。 「そう考えると、これほどにありがたいことなんて、ないんです」 28歳(取材当時)の彼女は、私たちにそう語りました。 沖縄では、結婚して子どもにも恵まれた地元の仲間と集うとき、『この子たちに、あの戦争をどう語り継いでいくか?』という話題が自然にあがるといいます。それは、沖縄県民なら誰もが一度は経験するという幼少期に家族に語られる生の「戦争の記憶」からくるものだろうと彼女は語ります。しかしあまりに重く耐えられないような雰囲気のなか、多くの子どもがそうするように、幼き頃の彼女も例外なく、こんな質問をしたことがありました。 「おばあ、どうしてつらい話を聞かなきゃいけないの?」 彼女の率直な問いに、祖母は答えました。 「忘れたら、また同じことをするでしょう」 ーーーーー*ーーーーー 戦争を考えるとき、私はいつも自分が存在する有り難みを想わずにはいられません。先祖が誰か一人欠けても、私の存在はありえない。戦争の話は、日常生活で見失いかけているこの上なく尊い事実を、眼前に突きつけるからです。 自分はいま、先祖たちの人生の営みの上に立っている。 知覧の特攻平和会館には「俺が死ねば、きみが1日長く生きられる」と記された絶筆がありました。もし、そんな気持ちで自分たちの生きる時代の「平和」を切望した先祖がいたと知ったら、自分勝手に退廃的に生きるなんて、できるはずがないのです。 過去の凄惨な出来事を直視し、“誰かのため”に耐え難きを耐えた人々の気持ちを想像すること。そんな地獄が二度と訪れないように、思い出したくもないことを涙を流しながら語ってくれる人々に感謝すること。いま、自分の生き方は彼らに恥じないか顧みること。これからも続く社会のために、何をすべきか考え行動すること。そして、小さな争いをなくすために、相手を思いやること。 人間という愚かな器である以上、そうしたことを忘れてしまえば、私たちはまた同じ地獄を経験するでしょう。だからこそ、せめて年に1度くらい、平和について黙考したいものです。 「78回目」の終戦記念日。 この数字が絶えることなく増え続け、感謝と思いやりに満ちた社会が続くよう、”人に良い影響”を与える生き方をしようと、襟を正す1日となりました。
- はじめまして!フラタニティです。
ご覧いただきありがとうございます。 当社ブログでは、教育・金融・平和などをテーマに情報発信してまいります。 フラタニティは、プログラムの開発過程で、専門家による監修・助言を受けたり、津々浦々を訪れ実地調査をしながらプログラムを制作しています。 専門家の知見はもちろんですが、ときには調査地の街で出会ったおばあさんが何気なく放った一言が、事象を明快に説明するための「キーワード」になることもあります。そうした名もなき言葉や知恵を含め、一人でも多くの皆さまにシェアしたいと思います。 これを読んでくれているあなたと、スキマ時間にちょっとだけ「知的探究ごっこ」をご一緒できたら嬉しいです。 いつもありがとうございます。